■2014年12月の書き込み
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2014年12月31日(水) 
④その後、景行は筑紫国や豊国にたむろする徒を平らげると、豊国長尾(福岡県京都郡)に仮宮しながら全軍の集結を待っていた。その間、珍彦に対して、
「豊国から物資と兵を抜かりなく送り込め」と厳命していた。
景行率いる皇軍は、そこから南下して日向の山間を難なく通り抜け、敵の都を一気に落とすつもりでいた。ところが地形を知り尽くした敵軍に進路と退路を断ち切られ、軍団をずたずたに引き裂かれてしまった。すぐさま豊国から物資や兵が南へ送り込まれたが、それが最前線に届いたのは稀だった。
その結果、征夷将軍の陣営は敵に翻弄されて瓦解した。当然、彦狭嶋

閲覧数346 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/31 06:43
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2014年12月30日(火) 
‥‥景行の熊襲(〓日前の火火出見)征伐→二七○年代半ば過ぎ、豊国から南下
孝元の義弟・彦狭嶋→西南藩屏将軍として随伴
景行と彦狭嶋将軍→惨敗して、日向に六年間抑留
①暫くすると、これが饒速日の耳に入った。火火出見が三嶋流神国づくりに散々難癖をつけた上に、火瓊瓊杵一代限りの和王を語ったとあっては、自らの手で誅伐しなければならなかった。苛立ちぎみの饒速日は、
「今度こそ、火火出見を徹底的にやっつけてくれよう」
と気負い込むや、すぐさま景行を呼びつけた。
「先手を打って、南蛮に与する火火出見から日前の名を取り上げてしまえ。さすれば、奴ら

閲覧数393 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/30 07:12
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2014年12月29日(月) 
‥‥火火出見の英断→高千穂宮を隼人町に遷し、磐余彦を太子に指名。ついで日前を和王朝と改名
火火出見の国是→①日神と高皇産霊の唱えた徳と真ごころに立ち返り、火瓊瓊杵の正義の心を広める。②伊奘諾と日神の悲願、つまり日隈・日前・熊野家の再興を成し遂げる。
③伊奘諾夫妻・熊野櫛御気野の親子を熊野家祖霊としてお祀りする。
①数年後、十数歳になった磐余彦は、高千穂峰近くの狭野(高原町)で遊び盛りの毎日を過ごしていた。その後は、高千穂宮(都城市)に移った。
そのまた二、三年後、歳五十を過ぎた火火出見は、鹿児島湾の奥に遷都して、そこも高千穂宮と呼

閲覧数278 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/29 06:48
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2014年12月28日(日) 
‥‥倭迹迹日百襲姫→二七〇年代前半、三代女王に就任。次に気長足姫が四代女王に就く。  
ヒミコの墓→バチ形前方後円墳に変貌し、倭迹迹日百襲姫も合葬
①二七〇年代の前半、女王トヨが大病に陥ったことで、饒速日は同年代の妃だった倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ、大日本王孝霊の姫、倭迹迹姫とも言った)を三代目女王に引き上げた。彼女は、聡明で先々の事がよく見通せた。その名は御炊屋姫・三炊屋姫・長スネ姫・活玉依姫など、饒速日の妃ら百人余の名を片っ端から襲名したことにある。
何ヶ月か後、この女王は饒速日に恥をかかせたとして逃げ去られ、失

閲覧数266 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/28 06:44
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2014年12月27日(土) 
‥‥素戔嗚→播磨の片田舎に幽閉さる。
日本武尊の誕生→二六○年代末
④彦狭嶋が饒速日の恩義に報いる責務は、南国勢が攻め上ってきた際には、一命を賭してでも日本朝を守り抜くこと、逆に西征に打って出る時は率先して総大将を引き受けることにあった。この状況下で播磨と伊予の要塞化が突貫工事で押し進められた。と同時に、彦狭嶋の児たちや、三嶋鴨族・小千族らが摂津や播磨から吉備児島・大三島・高縄半島へと繰り出して行った。
饒速日はこれも軌道に乗せると、一転して強気に出た。先の抗争で敵側に回った者らを東国や東北に追放して蝦夷と呼んで蔑んだり、敵方が

閲覧数368 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/27 07:00
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2014年12月26日(金) 
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え100〈日本武尊誕生の秘話〉~108〈仲哀の熊襲征伐〉2の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。

『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え100〈日本武尊誕生の秘話〉
‥‥素戔嗚→播磨の片田舎に幽閉さる。
日本武尊の誕生→二六○年代末

『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え101〈倭迹迹日百襲姫の墓〉
‥‥倭迹迹日百襲姫→二七〇年代前半、三代女王に就任。続いて気長足姫が四代女王に就く。  
ヒミコの墓→バチ形前方後円墳に変貌して、倭迹迹日百襲姫も合葬

『邪馬台三国志』古代史の常識と

閲覧数362 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/26 06:40
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2014年12月24日(水) 
‥‥天照国照彦火明饒速日→ヒミコの墓を帆立貝形前方後円墳に造り替えると、泰山に見立てながら封禅して天神に座し、天照国照彦火明饒速日と僭称。
東山道都督の大足彦→景行天皇として即位
七道制→八道制
①女王トヨの朝貢から一年と経ない内に、垂仁は天照国照彦火明饒速日と称して天神の位に昇る一方、大足彦が倭王の座に就いた。そこに至った経緯は、こうであるらしい。
「饒速日はヒミコの円墳を帆立貝形に造って二重の水濠で囲うや、これを泰山・梁父山に見立てる中で、柴を焚きながら封禅して現人神の天神に座り、ついで十握剣を天璽同然に祭り上げた」
その直後

閲覧数347 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/24 06:43
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2014年12月23日(火) 
‥‥女王トヨの朝貢、七枝刀献上→日本王朝期
①その前後の二六三年、魏は蜀漢を滅ぼしたものの、二六五年になると、臣下の司馬氏が魏帝から国を譲り受ける形を装いながら、晋なる国をうち立てた。
この混乱の最中に、新羅が百済の国土を再三侵した。百済王から救援をせっつかれたトヨと饒速日は、新羅や南鮮八国に攻め入り、その一部を百済王に返してやった。恩義を感じた百済王は、これを契機に日本の軍門に降って来て、
「これから先は、春秋ごとに貢ぎ物をお届けします」
と、礼を重ねて忠誠を誓ってきた。
②泰始二年(二六六年)、女王トヨは晋に至る道が確保できた

閲覧数278 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/23 07:24
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2014年12月22日(月) 
‥‥火火出見の高千穂宮→都城市都島
磐余彦の誕生→二六○年代前半 
①その後、火火出見は都城都島(都城市)に遷都して、そこも高千穂宮と呼んでいた。その名からは、「日神の嫡流として倭奴国王朝を再興し、日神と高皇産霊による政を再現してみせる」という彼の意気込みが感じ取れる。この都には、妃の豊玉姫もいつしか入都していた。
この夫婦の長男として生まれたウ草葺不合は、豊玉彦の次女・玉依(たまより)姫と結婚して五瀬(いつせ)・稲飯(いなひ)・御毛入野(みけいりの)の三皇子に恵まれた。その後、この家族は狭野(宮崎県高原町)に移ったという。
★ウ

閲覧数384 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/22 06:40
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2014年12月21日(日) 
‥‥男狭穂塚・女狭穂塚→元来は狭穂姫・狭穂彦の御陵。五世紀に規模が拡大
①同じ頃の日前では、火瓊瓊杵と木花開耶姫がヒミコの後を追いかけるようにして逝った。跡継の火火出見は大葬を済ませて日前を継ぐや、後見役として共に天降ってきた実母の狭穂姫、その義兄の狭穂彦を火瓊瓊杵夫妻に見立てながら孝行に勤しんでいた。
実をいうと狭穂姫には、狭穂彦との間に秘話があった。狭穂彦は、幼少の折に日子坐王の養子にもらわれてきて、いずれは狭穂姫の婿となる定めにあった。この時代、幼い許婚が一つ屋根の下で暮らしつつ、やがて結ばれる風習が流行っていた。向津姫と

閲覧数363 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/21 06:56
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