■2014年9月の書き込み
書き込み数は27件です。 [ 1 2 3 ]
2014年09月30日(火) 
‥‥天照大神親子→そろって水火(水穂)の天神に就任
水天神・天照大神の天璽→銅剣天叢雲剣
火天神・天鹿児山(天羽羽)の天璽→丹塗りの弓矢(天鹿児弓・天羽羽矢)
④暫くすると、海神と大山衹神は宮崎平野に水穂国を共立するや、そろって伊奘諾の許にやって来た。
「現状から抜け出す術などありません。潔く降伏に応じて下さるなら、貴方様を天鹿児山から守ってみせます」
伊奘諾はなおも再起にこだわったが、事態がこうまで悪化しては応じる他になかった。だが、降伏条件は殊のほか厳しかった。
一、太子に立てようとした日子を人質として邪馬台国に送れ。
二、禊祓

閲覧数617 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/30 06:38
公開範囲外部公開
2014年09月29日(月) 
‥‥伊奘諾の南遷→日隈の本拠地・熊襲に逃避
①生き残った将兵の中でも、筑紫島に無事たどり着いた者たちは、僅かだった。日隈軍・天之国軍・大山衹軍にがっちり護衛された伊奘諾でさえ、中国山地をひたすら逃げ走って闇夜の瀬戸内海を渡り、ついで佐田岬を転々としながら、漸く国東(大分県)の浜辺に上陸できたほどだ。素戔嗚らも風雨の荒れ狂う中国山地をびしょ濡れになって駆け通した後、人目を避けながら南へ落ちていった。向津姫・稚産霊・三皇女は、一足先に戦場を離れたことで傷一つ負っていなかった。
一方、敵の総大将・天鹿児山(天羽羽)は、尾張・出雲・吉備

閲覧数318 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/29 06:57
公開範囲外部公開
2014年09月28日(日) 
‥‥天下分け目の決戦→播磨で勃発した騒乱は、島根半島に飛び火。双方は闇見国(月夜見国、后土系の黄泉国)で決戦に臨んだ。結果、畿内勢が勝利したが、共に数え切れない数の将兵を失ったことで、闇見国は月夜見の黄泉(よみ)国と揶揄された。
①大妃の拉致を知った伊奘諾は、播磨の制圧に打って出た。その先陣を切って、天之国軍が吉備から西播になだれ込んだ。伊都国軍は東播の磐石に上陸できたものの、逃げ帰ってきた。伊奘諾は作戦がはかどらないことで、摂津・播磨の両磐石を海から不意打ちする作戦に切り替えた。これが効を奏して、大山衹神一門にあって敵方に寝返

閲覧数364 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/28 06:35
公開範囲外部公開
2014年09月27日(土) 
‥‥大乱の発端→大山衹神配下のオロチ族が播磨か摂津で伊奘冉を拉致
③その後、出雲に上陸した伊奘諾は、皇太神が新王朝を興したと聞くや、そのぶち壊しにかかった。
「そのうち、皇太神は天叢雲剣と似る銅剣を量産してばら撒き、出雲や吉備の厳(水)勢を抱き込みにかかるだろう。ならば、こちらが先手を打って同じ銅剣をばらまくまでのことよ」
 伊奘諾は四百本近くの銅剣を筑紫島で揃える手立てを整えると、出雲一円でこう触れさせた。
「天叢雲を慕う者は、当方に味方せよ。さすれば、もれなく天叢雲剣と似た銅剣を与えよう」
暫くすると、西海の大部隊が出雲に続々

閲覧数394 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/27 07:10
公開範囲外部公開
2014年09月26日(金) 
‥‥副都を治める豊受皇太神の反乱→一八○年代中頃、三輪氏(越オロチ族)と組んで邪馬台国なる厳之国王朝を再現し、天叢雲とも天照大神とも僭称
①その頃、倭でも大雨が降り続いて大和川・淀川などが氾濫した。ついで疫病が流行り、死者が相次いだ。いつの時代も天災地変が立て続けに起こると、根も葉もない迷信にすがったり末法思想に走ったりしたあげくに、
「政が悪いから、かような事態が起こった。天下が入れ変わる前兆だ」、
「いや、祀られない霊のたたりだ。先祖祭祀をおろそかにした天罰だ」
という考えに陥りがちだった。この災難をもろに被った三輪オロチの武

閲覧数377 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/26 06:44
公開範囲外部公開
2014年09月25日(木) 
◇大乱前後の大陸情勢
二世紀中頃から後半にかけて、漢は内憂や外患に見舞われ通しだった。皇帝の政を助けるはずの宦官が各地の県令を裏で操り、庶民から搾り取れるだけ搾り取って私腹を肥やしていた。北方では鮮卑が国境を荒らして回り、国内でも羌族や長沙の蛮族が、ついで山東半島の夷たちが頻繁に決起したことで、内外とも度重なる出兵を強いられてきた。
一方、黄河流域では旱魃や洪水が多発して、飢饉と疫病が蔓延した。その結果、多くの人が飢え死にしたり逃亡したりして、都市も農村も荒廃の一途をたどった。当然、漢の国力は低下して治安が乱れ、楽浪郡も南満州や

閲覧数312 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/25 06:48
公開範囲外部公開
2014年09月24日(水) 
④では、彼の生い立ちはどうだったのか。いつの頃に、いかにして頭角を現してきたのか。これを解く鍵も揃っている。その一つは、出雲の加賀神社(八束郡島根町)に伝わる縁起にある。
「天照大神の生所とするために、加賀の潜戸と名づけたり」
☆加賀神社は伊奘諾・伊奘冉・天照大神・キサカ姫・猿田彦を祀る。この辺りには猿田彦の遊び育った伝説がやたらと残る。
『出雲国風土記』および佐太神社(鹿島町)の縁起、「(加賀潜戸は)佐太大神の生れましし所なり。母のキサカ姫は『闇き岩屋なるかも』と言って、金の弓矢を持ち射給いし時に、光輝けり。故、加賀と言う」

閲覧数291 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/24 07:02
公開範囲外部公開
2014年09月23日(火) 
‥‥熊野権現〓マガダ国王→外宮・伊雑宮(内宮別宮、天照大神の遙宮)の祭神。草薙剣を依り代とした熱田明神と同体
天照大神、大穴持・神皇産霊・佐太大神・大国主・国常立、熊野櫛御気野・豊受皇太神・御饌津神・月神・月読命・天照皇太神、豊受大神・天御中主・高皇産霊・牛頭天王とも語った。
①豊受皇太神と日神は、伊奘諾の児として外内宮の主座(伊勢大神)に鎮座している。ならば、皇太神は日神の天照大御神とも同等の地位にあって然るべきだが、なぜか記紀にその名が出てこない。ヒミコの名もしかりだ。筆者はこの二人の事績を明らかにして、邪馬台国の実態に迫る

閲覧数390 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/23 06:50
公開範囲外部公開
2014年09月22日(月) 
‥‥熊野櫛御毛野→一八○年代前半、向津姫に婿養子入り
③この時期の伊奘諾は、瓊矛と十握剣をかざして日隈軍・天(水)軍・伊都軍を思いのままに動かし、政も自在に操るほどの権勢を有していた。絶頂期にあった彼は、熊野櫛御気野を農耕の責任者に、続いて倭王の食事長を兼ねる御饌津(みけつ)神に据えたかと思うと、次に鮫(ワニ)艦隊を託して豊葦原中つ国、豊葦原瑞穂国、丹後・尾張の両海部家、各地の熊野家を順次巡回させていた。ついで皇太神(太子)に格上げして、これらの国を手なずけにかかっていた。
とんとん拍子に出世した皇太神は副都での月神にのぼり、豊

閲覧数400 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/22 07:06
公開範囲外部公開
2014年09月22日(月) 
‥‥伊奘諾の愛児(まなこ)・熊野櫛御毛野と向津姫(大日孁貴、日神)→熊野櫛御毛野は、伊奘諾が豊葦原中つ国から迎えた養子。とんとん拍子に出世して、皇太神(太子)に昇進
向津姫→伊奘諾の日隈(熊野家)に養女入り
①当時、伊奘諾は多くの皇子に恵まれていた。伊勢神道によれば、海神、水戸神、船戸神、大山衹神、熊野櫛御気野(くしみけの)、鳥石楠船神、大宜都姫、金山彦神、ミズハノメ神、甕速日神(武甕槌の父、天之尾羽張神の子孫)、建御雷男神(経津主、伊都之尾羽張神の子孫)、住吉三神、日子(蛭児)などだ。
この外にも、他家からやってきた養子や養女

閲覧数349 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/22 06:50
公開範囲外部公開
[ 1 2 3 ]
■プロフィール
takataysさん
[一言]
古代史研究家
■この日はどんな日
書き込みはありませんでした。
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み