■2015年2月の書き込み
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2015年02月25日(水) 
⑤『古事記』に、「(神武天皇の)御陵は、畝傍山の北、白檮の尾の上にあり」とあるが果たしてそうだろうか。磐余地方の山の稜線に、四世紀初めに造られた日向式の柄鏡形前方後円墳が『日本書紀』の記述に沿った形で二陵も築かれたことは、以下の遺勅や言葉と無関係ではあるまい。
★光武帝の遺勅、「朕は民に益するところが無かったので、葬送の品は瓦器を用い、金銀銅錫などで飾らぬようにせよ。墓も自然の山形を利用するに止め、墳丘を築いてはならぬ。できるかぎりの倹約を宗とせよ」
★魏文王の定めた寿陵制度、「その昔、堯は穀林に埋葬され、その陵には穀林と同じ木

閲覧数501 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/25 06:47
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2015年02月24日(火) 
③この鳥見山から北へのびる尾根上には、四世紀初めに造られた日向型の柄鏡形前方後円墳が鎮座する。桜井茶臼山古墳と呼ばれるそれには、樹齢千年以上の巨木からなる木棺が安置されていて、その内外に二十六面の三角縁神獣鏡をはじめ、内行花文鏡・方格規矩鏡・画文帯神獣鏡・獣帯鏡など八○面以上の銅鏡、それに三種神器である曲玉・鉄剣、さらに王権を示す碧玉製の玉杖・玉葉が副えられていた。
その円墳上に土を盛った方形壇があって、その周りを底のない祭祀用壷が取り巻く。この古墳は帝王級副葬品が豊富にあったにもかかわらず、被葬者の名も伝わらない。極めて謎の多

閲覧数493 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/24 06:48
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2015年02月23日(月) 
②この儀式の拠りどころは五帝期の封禅や、成王を補佐した周公が后稷(周祖棄)を南郊に祀って天(農耕の天神)に配し、秋に新穀を奉った周礼、また文王を明堂に祀って皇祖に配した周礼、さらに光武帝が漢朝を再興した際の封禅や郊祭にあるのは明白だ。
☆周公は幼い成王を助けて政に就くと、后稷を南郊に祀って天に配し、文王を明堂に祀って上帝に配した。それ以前に、火徳をそなえた文王は赤い鳥が現れるという瑞祥によって、封禅の天命を受けたが泰山での封祭を行わず、武王も殷を破った二年後の天下が未だ安定しない時期に逝ってしまった。これからすると、続く成王が封

閲覧数378 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/23 06:47
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2015年02月22日(日) 
‥‥皇祖皇宗の祭祀→鳥見山北麓の桜井茶臼山古墳で封禅さながらに郊祭して皇天二神を天に配し、皇祖皇宗に奉る。
祭祀の式日→神武四年(三○四年)の春二月二十三日(桃の咲く頃)
儀式の拠りどころ→五帝期の封禅、周礼、光武帝による封禅や郊祭
①月日が流れて、ヒミコの墓(箸墓古墳)がバチ形の前方後円墳に様変わりすると、神武はそこに祭場を設けて、厳かな儀式に臨んだ。まず女王トヨの亡き骸をホケノ山古墳から掘り出して方墳のバチ形部に再葬した後、二重口縁壷や花なども供えながら女王トヨの冥福を祈った。
三○四年の春二月二十三日(桃の咲く頃)、上之宮(

閲覧数381 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/22 06:40
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2015年02月21日(土) 
‥‥建国式と神武天皇の即位→三〇一年(辛酉年)元旦
①年が明けた三〇一年(辛酉年)元旦、雅楽が厳かに流れて猿女君(天鈿女の子孫)らが神楽を舞い踊る中で、磐余彦は建国の儀と即位式に臨んだ。儀式が盛り上がったところで、彼は火火出見愛用の礼衣を纏った姿で現れ出て、神日本磐余彦火火出見と名のるや、神璽の鏡剣を捧げ持って大和朝廷の建国を声高らかに宣言した。これを祝福して、可美真手が中つ鏡・辺つ鏡など瑞宝十種を奉献し、ついで神楯を持った近衛兵を御前にずらりと並べて忠誠を誓った。斎部の天富も天璽の鏡剣を捧げながら祭壇に奉った後、朗々と祝詞を詠

閲覧数411 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/21 06:50
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2015年02月20日(金) 
‥‥宗廟の地→伊勢の五十鈴川川上
③五つ目の仕事は、日神と高皇産霊を伊勢で祭祀することだ。彼は渡会宮(磯宮)のすぐ南に檜御柱を立て、その真上に祭殿を建立して天照御魂神(真経津鏡)を奉祭すると、天富(あめのとみ、太玉子孫の斎部)を宮司(みやづかさ)として檜御柱の許で厳粛な儀式をとり行った。その形は、日神が高皇産霊の再来を祈っているかのごとくに見えた。もちろん、従来の五十鈴宮での祭祀も、ひっそりとではあるが継続されていた。
ところで、ヒミコが伊勢二見の地で倭姫に託した例の、「豊受姫と豊受大神(豊受皇太神)御霊を伊勢に呼び寄せ、一緒に

閲覧数464 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/20 06:57
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2015年02月19日(木) 
‥‥皇天二神を称える御陵→磐余地方の鳥見山北麓に造営
箸墓→女王トヨ(豊鍬入姫)も合葬
①四つ目の仕事は、皇天をたたえて新たな御陵を築き、そこで日神と高皇産霊を皇祖皇宗としてお祭りすることだ。大和朝廷としてはヒミコの墓をそのまま残しておく理由などなかった。かと言って取り壊すこともできなかった。そこで彼は、ヒミコもヒミコの墓も最初から存在しなかったとして、こう決断した次第だ。
一、日神と高皇産霊のために、鳥見山麓に壮大な日向式山陵(柄鏡型前方後円墳)を築く。
一、ヒミコの墓の方形を継ぎ足してそこに女王トヨも合葬し、倭迹迹日百襲姫の墓

閲覧数368 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/19 07:00
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2015年02月18日(水) 
②磐余彦の二つ目の仕事は、太子を一から決め直すことだった。彼は時間的な制約から独断する以外にないと悟ると、まず自分の身内を政権からはずし、都からも遠ざけた。そうすることで、厳正に対処する姿勢を示したのだ。即ち、磐余彦の長男は阿蘇神宮の神職に就き、兄の御毛入野は高千穂郷に戻って日神の祭祀に専念することになる。
【阿蘇神宮の縁起】、「神武天皇(磐余彦)の長男は、阿蘇草部の娘と結婚して阿蘇権現となる」
【高千穂町に残る伝説】、「御毛入野は高千穂に戻り、三田村姓を名のる」
磐余彦はこの手はずを整えてから、開化皇子・神功三男(磐余彦の児)

閲覧数240 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/18 06:44
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2015年02月17日(火) 
‥‥橿原宮の完成→四世紀初頭
皇天に二つの誓い→①辛酉年元旦に、大和朝廷の建国の儀と即位式を行う。
②倭を一家にまとめる、太子を決め直す、垂仁の神璽を後世に伝える、皇天二神の御陵を築き皇祖皇宗に奉る、あわせて宗廟を建てるなど、五つの仕事を成し遂げる。
大倭の地→大和と改名
神功皇子・気比大神・開化皇子・新羅王子・磐余彦の児→互いに名前を交換
饒速日末裔の物部氏→海幸彦の誓約遵守に加え、十握剣を押し付けられて朝廷の軍事筆頭職に就任
①橿原宮は着工から一年以上が過ぎて、漸くその形が整ってきた。そこで、磐余彦は宮殿近くに檜御柱(神籬)を

閲覧数318 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/17 06:43
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2015年02月16日(月) 
⑥任務を果たして帰途についた日本武は、碓氷峠を越えて甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も鎮めて回った。尾張に戻った彼は真っ先に宮ス姫の家に駆けつけ、天鹿児山の霊前で結婚式を挙げたのだった。
月日がたって、彼は伊吹山になおも賊が隠れ潜むと聞くや、居ても立ってもいられなくなったのか、討ちとる決意を固めると同時に、妻に次の言葉と草薙剣を託して出かけた。
「私が留守の間、姫はこの剣で高皇産霊に武運を祈りながら、そのつど私を思い出しておくれ」
日本武は賊を討ち果たそうと伊吹山に登って行ったが、そこで硫黄ガスに包まれたのか、はたまた敵のワナに嵌

閲覧数344 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/16 06:45
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