■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
http://mypage.hyogo-intercampus.ne.jp/blog/blog.php?key=2041
2020年07月14日(火) 

①我が国では縄文時代の昔から、五帝期の神仙思想、天竺風の習慣・来世観・石の文化、さらに初期仏教に似た教義が根づいていた。このことから、「東の海上に神仙郷がある」との噂が何度も春秋期の中国に伝わり、斉の威王・宣王、燕の昭王らが東海上に探検隊を送るのであり、儒教を弾圧した秦始皇帝も神仙思想に心を開き、不死不老の仙薬を手にしたいと徐福を遣わしたのだ。
邪馬台国時代、この種の神仙観が鏡の模様となって現れた。神仙の人物画像が鋳込まれたホケノ山古墳(奈良県、三世紀中葉)の画文帯神獣鏡、仏の光背と似る円形模様が神像背後に描かれた椿井大塚山古墳(京都府、三世紀末)の三角縁神獣鏡がそれだ。四世紀前半になると、それが仏教色を一段と濃くして行く。蓮華座に座って両手に印を結ぶ仏の姿が新山古墳(奈良県)出土の三角縁仏獣鏡に現れたのだ。ここで、南伝仏教が漢に伝わる経緯についておさらいしておこう。
★仏陀死後まもない初期仏教時代、弟子の僧らが集まり、記憶していた仏陀の説教をまとめてアーガマ(阿含教)として作成した。僧団が多数の部派に分裂した部派仏教時代も、教義の解説書などが僧団ごとにつくられ、議論されてきた。これらは阿毘達磨(阿毘曇)と呼ばれた。
★前三世紀、仏教に帰依したマウリヤ朝のアショーカ王(マガダ国の阿育王、前二六八~前二三二年頃)は、釈迦が直弟子に教えた法(ダルマ)に基づく政治を掲げて、インド全土への普及活動に努める一方、王子をスリランカに派遣して南伝仏教を伝えた。布教はビルマにも及んだ。
同時に、仏陀の遺骨を納めた八つの仏塔のうち、七つを開いて遺骨を細かく砕き、八万四千の仏塔に納めて布教に努めた。聖観世音菩薩を祀ってきた天台宗石塔寺(別名阿育王山、東近江市)は、その一つとされる。浙江省寧波市の阿育王寺(二八二年に建立)舎利殿にも、「釈迦牟尼真身の舎利」が納められているという。
★アケメネス朝の滅亡後に興るパルティア国(安息国、前三~三世紀)では、宗教に寛容だったことで、ゾロアスター教、部派仏教上座部に属する説一切有部(南伝系)、ミトラ教が入り混じって流行っていた。
★光武帝の次に立った明帝(五十七~七十五年の治世)は、六十五年に仏教をたずね求めて、天竺に使者を派遣した。この使者は二年後に仏典と仏僧を伴って帰国した。
『後漢書』「西域伝」、「明帝、夢に金人を見る。長大にして頂に光明あり。以って群臣に問う。ある人曰う。西方に神あり、名づけて仏と曰う。その形、長さ丈六尺にして黄金色なりと。帝、これに於て使いを天竺に遣わして仏道の法を問う」
★クシャン朝のカニシカ王(二世半ば頃の治世)は、西インド・パキスタン・アフガニスタンにまたがる大帝国を築くと、仏典編纂を命じたり、各地に仏塔を建てたりして布教に努めてきた。
王が守護した仏教は、新しく興る大乗仏教(北伝系)とされるが、自身は拝火教を信奉し、説一切有部、シヴァ神・太陽神・月神・火神・風神など天竺の神々に対しても寛容だった。
中心都市ガンダーラでは、ギリシャ文化と仏教文化が結合して仏像が作られ、仏教美術が花咲いていた。ギリシャの影響も受けた仏教は、ペルシャ・中央アジア・東南アジアへ広がった。
★一四八年、パルティア国太子で阿毘達磨に精通する安世高が洛陽に来朝して南伝仏教を伝え、ついで一六七年頃に月氏国の支楼迦(シロウカ)センがやってきて、北伝仏教を伝えた。互いが仏典や経典を競って漢訳に励んだことで、洛陽を中心に中国風の仏教が広まった。
これ以外にも、竺仏朔・安玄・支曜・康猛詳・曇果が漢訳にたずさわってきた。竺姓はインド人、安姓はパルティア国すなわちペルシャ人、支姓は月氏、康姓はサマルカンドの人、曇は梵語の法の音からとった漢字でインド僧を意味した。いずれもクシャン朝に縁ある西域の人たちとされる。桓帝自身も黄老思想とあわせて仏教を敬っていたという。
☆志賀海神社(志賀島)を司祭してきた安曇(あづみ)氏、長野県安曇市、滋賀県安曇(あど)川の安は、安息国にちなむ名で、パルティア人が渡来して移り住んだと言うに等しい。
②牛頭の由来、謡曲白髭、南伝仏教の漢朝流入を考え合わせると、牛頭天王や釈迦と語る人物が天竺辺りから渡来したのは明白だ。ならば、この御仁は神仏習合で、如何に祀られてきたのか。
八坂神社では牛頭天王を薬師如来、日吉大社の西本宮では山王を釈迦如来、真言宗では天照大神を大日如来、真言宗豊山派の長谷寺では天照大神を十一面観音菩薩として奉ってきた。「白髭神社縁起」「比良の神と観音経にまつわる話」では、観音菩薩となって現れたという。
ちなみに、観音菩薩が補陀落山に降臨して北や東に広がるのは前一世紀、北伝仏教の大成は二世紀中頃で、我が国への観音信仰伝来は飛鳥時代以降とされるが、実際は、そのずっと以前から南伝仏教系の観音信仰が定着していたと見ても、何ら不思議ではない。
〔補陀落〕、補陀落は、観音信仰の霊場である。観世音菩薩は印度南端の海岸に聳える八角形の山、補陀落山に降臨したという。ちなみに観世音は、阿弥陀如来の脇侍、勇猛なる男子とされる。
天竺での観音信仰は古く、前一世紀頃の観音菩薩像がガンダーラで発見されている。中国での観音霊場は舟山群島の普陀山、日本では那智滝近辺、家康に仕えた天台僧天海が唱えた山王一実神道では日光二荒山で、山王=天照大神と見るこの山の表向き主神、大己貴の本地仏も千手観音だ。
〔補陀落山寺〕(那智勝浦町)、仁徳天皇の治世、天竺から熊野の海岸に漂着した裸形上人により、開山されたと伝わる。十一面千手千眼観世音菩薩を祀る天台宗寺院で、補陀落渡海で有名だ。
☆熊野では徐福伝説や熊野権現垂迹縁起の他にも、補陀落渡海の言い伝えが残る。
補陀落渡海とは、熊野那智、那珂湊、足摺岬、室戸岬などから南の彼方、補陀落山をめざし、三十日分の脂と食料だけを携えて出航することを言った。古来、幾度となくこれを試みる者がいたが、そのほとんどが遭難して帰らぬ人となった。
〔青岸渡寺〕(和歌山県那智勝浦町)、如意輪観世音菩薩を本尊とする天台宗寺院。創建時期については、「仁徳天皇の時代(四世紀)、天竺から渡来した裸形上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音像を本尊として安置した」と伝わる。
元来、那智の大滝を信仰する神仏習合の一大修験場だったらしい。一千日の滝籠りをされた花山法皇が永禄二年(九八八年)に御幸され、西国三十三所観音霊所の第一札番所に定められた。
〔法皇熊野那智山御参詣事〕、花山法皇が熊野那智山に籠って千日修業していると、彼のもとに龍神が降ってきて、如意宝珠・水精の念珠・九穴のアワビを献じた。このアワビを食すると、不老長寿が叶うとされてきた。法王はその宝珠を岩屋に、アワビを那智滝の滝壺に沈めさせた。九穴のアワビを食した者だけが不老長寿になるよりも、滝の水を口にする者全てが延命になるよう願ってのことらしい。因みに那智大滝は、大己貴(大穴持、天照大神であろう)の化身とされる。
「雲陽秘事記」、「松江藩城主・松平直政(家康の孫)が杵築大社に参詣した折、国造の制止を聞かずに無理やり御神体を覗き見ると、九穴のアワビ(不老不死を唱える海神?)のようだったが、たちまち巨大な大蛇(オロチの天照大神)に変身した。直政は畏れて逃げ出した」という。
③六根清浄なる言葉は、仏教用語に限らない。熊野や剣山では、白装束をまとった信者らが登山中に連呼した一方、「六根清浄大祓」祝詞に天照坐皇大神の言葉として、記されている。
〔「六根清浄大祓」祝詞〕、「天照坐皇大神の宣わく、・・心は即ち神明の本主たり。心神を痛ましむるなかれ。是故に、目に諸諸の不浄を見て心に諸諸の不浄を見ず。耳に諸諸の不浄を聞いて心に諸諸の不浄を聞かず。・・意に諸諸の不浄を思いて心に諸諸の不浄を想わず。・・是の時に清く潔よきことあり。・・是即ち六根清浄なり。六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり。・・」
ならば、北伝仏教が日本に公伝する六世紀前半よりずっと以前に、天照大神が六根清浄を唱えていたことになる。神と仏を合わせ奉る神仏習合は、この御仁が実践したと考える他にない。
      六根清浄 六根清浄 真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す

閲覧数110 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2020/07/14 07:57
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
takataysさん
[一言]
古代史研究家
■この日はどんな日
書き込みはありませんでした。
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み