■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
http://mypage.hyogo-intercampus.ne.jp/blog/blog.php?key=2043
2020年07月28日(火) 

ここで、ちょっと一息。羽衣伝説は世界各地にあるらしい。日本では、『近江国風土記』記載の余呉湖にまつわる伝説、『丹後国風土記』にある京丹後市峰山町を舞台とする伝説が有名だ。
『丹後国風土記』では、悲劇に遭った豊宇加能売(とようかのめ)が男神天照大神、天照大御神、火瓊瓊杵、丹後海部家に寄り添ってきた豊受姫とどう関係するのか定かでないが、この機会に「羽衣伝説」を通して、当時の天女の心意気と共に、俗人夫婦の強欲な生き様も知っておきたい。
〔『但馬故事記』の豊受姫〕、「饒速日は勅と瑞宝十種を奉じて妃の天道姫・数多の随身を率い、丹波の真名井原に天降った。そこで豊受姫からもらった五穀や桑の種を植えつけたり、井戸を掘ったり、田畑を開いて蚕を育てたりした。豊受姫はこれを見て大いに喜び、田づくりの手伝いにと天熊人を遣わした。後に、饒速日はそこから河内生駒に天降った」
『日本書紀』の豊受姫〕、天照大御神は倭姫を連れて、天叢雲剣を奉じながら、夫天照大神御霊が安らかに鎮座できる聖地を求めて倭の笠縫邑を出立した。その後、伊勢国に到り、五十鈴の川上にうってつけの聖地を見つけると、その一角に磯宮と渡遇宮を勧請し、檜御柱と天叢雲剣の前に跪いては、夫が降臨してくるよう祈り続けていた。ある時、天照大御神は倭姫に向かって、
「私は檜御柱の許で高皇産霊を祀り、次に天叢雲剣で以て天照大神を祭祀してきたが、豊受姫も丹後で御饌津神と豊受大神(共に豊受皇太神、天照大神の異名)を奉祭してきて、夫の御霊を別々に祀っているのが侘しくなった。そのせいか、近ごろは食事もろくに進まない。どうか、等由気大神(豊受大神御霊と豊受姫)を伊勢に呼び寄せ、ともに祭祀できるよう図らって欲しい」
と頼み入れた。だが、豊受姫はすでに他界していたのか、伊勢に参内することはなかった。
この姫こそ、雄略天皇によって伊勢神宮に豊受皇太神と一緒に祀られた豊受皇太神の養女、即ち天孫と共に吾田に降臨する登由宇気神であり、『但馬故事記』に登場する豊受姫なのだ。
〔『丹後国風土記』の羽衣伝説〕、丹後の国に比冶の里あり。この里の比冶の山頂に井あり。その名を麻奈井と言う。この井に天つ乙女八人降り来りて水浴す。時に老夫婦あり。老夫らこの井に至り、密かに天つ乙女一人の衣を隠しつ。即ち衣裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣裳もなき乙女一人が留まりぬ。身を水に隠して独り恥じ居り。ここに老夫、天つ乙女に語りて曰く、
「吾に児なし、請わくば天つ乙女の汝、児とならむや」と言う。乙女、答えて曰く、
「われ独り人の世に留まりぬ。何にか従わずあらむ。願わくは衣裳を返し給え」と。
老夫曰く、「天つ乙女、如何にぞ欺く心持てる」と言う。天つ乙女曰く、
「天つ人の志は信(まこと)をもちて本とせり。何ぞ疑いの心多くして衣を許さざる」と言う。
老夫答えて曰く、「疑い多く信なきはこの世の常なり。故、この心で許さずあり」と言い遂に許せり。即ちともに家に行き、相住むこと十余年になりき。
ここに天つ乙女、善く酒を醸せり。その値の財、車に積みて送れり。その家豊かにして富みき。
後に老夫婦ら天つ乙女に曰く、「汝は吾が児に非ず、暫く借りて住めり。早く去れ」と言う。ここに天つ乙女、天を仰ぎて歎き地に俯して泣き、老夫らに語りて曰く、
「妾(やっこ)は私意(わたくしごころ)で来たるには非らじ。こは老夫らが願えるなり。如何にぞ悪意を起こし忽に追い払う」と言う。老夫、いよいよ怒りて立ち去ることを願う。
天つ乙女、涙を流しやや門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰く、
「久しく人の世の沈みしに天にえ還らず。また親もなき故、拠る所知らず。吾や如何にせむ」と言う。・・遂に立ち去りて荒塩の村に至りぬ。・・また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至り、留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇加能売の命ぞ。
昔も今も、老夫の如く我欲に生きる輩が何と多いことか。正しく生きるには煩悩を捨て去り、
      六根清浄 六根清浄 真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す

閲覧数29 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2020/07/28 07:25
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
takataysさん
[一言]
古代史研究家
■この日はどんな日
書き込みはありませんでした。
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み