2014年08月03日(日) 
記紀などにある天照大御神(日神)・天照大神(高皇産霊)に関係する記事、「倭人伝」などにあるヒミコに関する記事、神社の縁起・各地の伝承・考古学の結果を年代順に並べた。
★天孫火瓊瓊杵と天鈿女ら、薩摩吾田に降臨         二二○年代前半
★天照大御神と素戔嗚ら、畿内に向かう          二二○年代前半
★大己貴が天照大神につき従って大倭入り         二二○年代前半 
★天照大神、逝去                    二二○年代前半
★ヒミコ、倭女王に即位                 二二○年代前半
 ☆このとき、天照大御神は六○歳弱  ※「倭人伝」は「年已に長大」と伝える。
★垂仁(天孫火明)、纏向に珠城宮を置く          二二○年代前半
★垂仁皇子の誉津別、瓊瓊杵皇子の火照が共に誕生      二二○年代中頃~後半
★垂仁、狭穂姫と離縁                  二二五年ころ
★誉津別(火火出見)、日向に天降り            三○年代前半
★日葉酢姫ら五姉妹、垂仁に輿入れ            二三五年ころ
★海幸彦(火照)、山幸彦(火火出見)と争う       二三○年代後半~二四○年代初め
★ヒミコ、魏に朝貢                   二三八年
 ☆このとき、天照大御神は七○余歳
★倭姫(垂仁と日葉酢姫の四子)、誕生           二四○年ころ
★ヒミコ、狗奴国(南九州)の男王卑弥弓呼と和せず     二四六、七年ころ
★天孫火明、ヒミコに背く                二四六、七年ころ
★張政、詔書・黄幢を難升米に拝受せしめ、檄文で告喩す  二四七年
★天照大御神、笠縫邑に遷って、夫の天照大神を祭る    二四七年ころ
★少彦名(天孫火明)、常世郷(常陸国)に逃亡        二四七~八年
★海幸彦、火明と饒速日を共に襲名して大倭に天降る    二四七~八年  
★ヒミコ、トヨ(本書では、豊鍬入姫)を宗女(跡継)に指名  二四七~八年 
★天照大御神と倭姫、天照大神を祭祀して伊勢に遷座    二四七~八年
 ☆このとき、天照大御神は八○歳過ぎ、倭姫は八~九歳
★ヒミコ死し、大いに冢を作る。径百余歩         二四八~九年
 ☆天照大御神の享年、八十余歳
 ☆魏の一歩は、約一・五㍍。従って、箸墓古墳の円墳径一五七㍍は、百余歩に相当。
 ☆箸墓の円墳上にあった特殊器台土器の年代は、三世紀中頃。
★大己貴が火明饒速日につき従って大倭入り        二四八~九年
★火明饒速日(日本大物主大神)、日本王朝樹立       二四八~九年
 ☆このとき、火明饒速日は、二十歳代前半
★王を立つるに、国中服せず。こもごも誅殺し千余人を殺す 二四八~九年
★トヨ十三歳、女王に即位                二四九~五○年
 ☆このとき、豊鍬入姫は、十代前半
★景行、纏向に日代宮を開く               二七○年代前半
★神武(磐余彦)東征                   二八五年
★倭姫、五代目女王倭迹迹姫として即位          二八五年
 ☆このとき、倭姫は四○歳代中頃
★日本王朝の滅亡、日本武、伊勢の倭姫から草薙剣を拝受  二九八年ころ
 ☆このとき、倭姫は六〇歳くらい。ほどなく逝去した模様。
★神武即位、大和朝廷の成立               三○一年元旦
★邪馬台国の滅亡後(三世紀末)、纏向の地は衰退の一途をたどった。
                 
②上記の中で、倭姫の生い立ちや年齢にこだわった理由は、以下を確認することにあった。
一、六百年生きたとされる倭姫の寿命は、高々六十余歳に過ぎない。
二、倭姫が伊勢国に巡行した年齢は十歳足らず。そのとき、天照大御神は存命中だった。
したがって倭姫巡行の記事は、「齢八十過ぎの天照大御神が、十歳に満たない倭姫を連れながら、夫天照大神の御霊を祭祀する聖地を求めて伊勢に遷座した」と理解してよい。
③こうまでも、天照大御神とヒミコの足跡や事跡が重なってくると、日神の天照大御神は、高千穂宮から大倭に遷座して倭女王ヒミコに転身したと、考える他にない。
④では、なぜ日神の天照大御神は、畿内に遷座せねばならなかったのか。
それは、混沌とした中国大陸の情勢と大いに関係している。日神も臣下たちも、明日にでも呉の艦隊や遼東勢が押し寄せてくると危惧するあまり、東方への遷都を急いだのである。
⑤なぜ、日神の天照大御神がヒミコであると、不都合なのか。
大和朝廷を開く和家と(豊)葦原中つ国、それに日本家・大日本家・厳之国の面々は、一家にまとまるや、過去の争いの原因が皇家の分裂にあったと今更のように思い知った。そしてこうも考えた。
「倭が一系を保っていたなら、大乱など起ころうはずがなかった。将来のことを考えると、歴史を塗り変えてでも身内の争いなど無かったことにした方が賢い」と。
大和朝廷としても、天神であった日神が魏に朝貢したとあっては、面目丸つぶれになる。大和朝廷を開くに際しても、神武は日神を再び天神に奉って皇祖皇宗に祭り上げた故、朝廷の威信にかかわる案件だった。そこで、国をあげて歴史の改竄を断行することで、不都合な過去を葬り去った。
こうして、同時期に並立していた九州の倭(和)家、出雲の(豊)葦原中つ国、それに畿内の日本家・大日本家の家記が、縦一直線に結ばれた。その結果、伊奘諾・日神の天照大御神・大己貴から磐余彦に至る歴史が神代に追いやられた。と同時に、大乱を引き起こした人物の事績も抹殺された。
このことから、日神とヒミコの存在時期に千年の開きができてしまい、二人のつながりは一顧だにされなくなった。記紀のよりどころとなった帝紀・旧辞や各家の記録が万世一系のごとく塗り替えられたのは、大和朝廷成立のまもない頃と思われる。これでわかるように、記紀改ざんの手口は至って単純だが、大方は万世一系に捉われるあまり、そこに考えが及んでいない。

閲覧数330 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 08:35
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
takataysさん
[一言]
古代史研究家
■この日はどんな日
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み