2014年08月03日(日) 
◆①徳治と神国(神仙の国)づくりを謳った五帝期(四三○○年あまり前)に、初代上帝で地の神だった黄帝の一門が縄文中期末の日本列島に渡って来て、玉つ宝七つ等を奉じながら神国づくりに励んでいた。
黄帝を奉る彼らは福岡平野に那珂つ国を興して、東西南北四方に忠臣を配して国邑を守っていた。その四方とは、北の玄界灘沿いを治める黄泉国(鬼国)、東の国東にあって后土に由来すると称する杵築国、炎帝末裔と言い張る南の火神族・その配下の熊族(熊本以南)、西方の海神(筑紫平野)だった。玄界灘・玄海島・玄海・那珂・那珂川・国東半島の杵築・熊本・球磨川・熊襲は、その名残だ。
この国は筑紫島全域を固めると、山陽道・山陰道を突き進んで出雲・安芸・吉備・畿内に乗り込み、要所要所に分国を立てては先住民に神国づくりや丘での焼畑農法を教え広めた。晩期には、北陸や東海辺りまで迫っていた。

②前四七三年、太伯兄弟につながる呉が越に滅ぼされた。江南や斉に散らばった呉の一門は、筏船や帆船で琉球諸島・朝鮮半島に流浪した末、蓬莱島と思しき筑紫島の西北部や唐津湾岸にたどり着いた。そこで湿地帯を開拓して水田稲作に取り組みつつ、日の鏡三面でもって日の神を称える天之国を興すと、那珂つ国に接近して水田稲作の手ほどきをしたり、環濠集落を造って国邑を守る術を教えたりしていた。
その後、那珂つ国は旧地回復と称して天之国勢ともども北陸や東海に押し入ったが、東北から繰り出してきた敵勢に前進を阻まれた。

③前三三四年頃、夏后帝小康庶子の立てた蛇神の国・越が楚に滅ぼされた。海に漂った越のオロチ族は薩摩半島に大挙襲来すると、熊族の手引きで那珂つ国や天之国に襲いかかり、その神器を奪って分け合った。結果、那珂つ国は黄泉国・杵築国らと出雲へ遁走し(中つ国と改名)、天之国は配下に組み込まれて越流の米づくりを強いられた。
オロチ族は、吉野ヶ里に重鎮一門を策封して筑紫島全域をがっちり固めると、夏王朝のごとく九州に分けて統治していた。
その後は、蛇神の領巾・八握剣(細形銅剣)・銅鏡二など瑞宝十種を天璽とする厳之国王朝と銘打って東に大軍を押し出すや、一門の小千族を摂津に、三輪オロチ族(三輪氏)を奈良盆地に、本家筋のオロチ族(後世の越智氏)を北陸に策封して越流稲作に入れ込んでいた。
この時期、厳之国本家は福岡平野の金城湯池に天宮なる都を構えながら、オロチ族や天之国勢・中つ国勢らに対して天命と称する詔を降していた。

 ④前二三○年、戦国七雄の韓(周分家)が秦に敗れた。その亡国民が朝鮮半島経由で福岡平野に大挙押し寄せてきて、銅鏡でもって日の神を祀る日高国を建国した。厳之国は決戦に出て大敗し、厳本家は片田舎の宗像や玄海に押し込められた。
やがて、日高と天之国は互いの先祖が周王朝につながると知るや、一転して周を理想と仰ぐ倭(陽茂台)国を福岡平野に共立した。以後、厳之国は天之国に併呑され、天(厳)之国一門として立ち回っていた。
その後、倭はオロチ族を前面に押し立てながら東海や若狭辺りまで乗り出すと、周公にならって奈良盆地に副都・月の都を開いた。火神として銅鐸を祭る大倭家は、出雲から副都に移り、そこの統治に励んできた。
前二世紀中頃、漢朝で跡目争いが起こり、居場所を失した王族が倭に流れて来た。時の倭王は彼らを国東の豊国に封じて筑紫島や都の守備を任せるや、将兵を総動員して東での領土拡張に突っ走った。

閲覧数325 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 08:43
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