2014年08月03日(日) 
⑤その隙をねらって、厳一門で蛇神・銅剣を祀る葦原家の天叢雲が豊国や中つ国と結託して倭国の都になだれ込み、豊葦原中つ国なる王朝を福岡平野に樹立した。この王朝は福岡平野西の早良近辺に都を定めると、安芸に同門の秋水穂国、淀川下流域に豊葦原瑞穂国を策封して東方や副都を任せきっていた。豊国も国東にあった配下、海部家を丹後や尾張に移し、双方に副都の両脇を固めさせた。
この立役者・天叢雲は、厳本家を宗像や玄海(遠賀川西方)に閉じ込めたままで、名ばかりの宗家(宗像家)に祭り上げると、瑞宝十種を奪って己の宝器に差し替えたのみならず、本家の座に居座った。

⑥前一世紀中頃、その四代目が跡目争いを起こして天下を乱した。このとき、(有柄)銅剣で蛇神を祀る吉野ケ里の厳一門が福岡平野に打って出て豊葦原中つ国を出雲に追い払うなり、旧王朝や厳之国・天之国の配下を片っ端から引っこ抜いて新王朝につくり変えた。前一世紀後半には、漢に朝貢して王朝の信任を勝ち取った上に、伊都国なる誉れ高い名も授かることで、福岡平野の春日や三雲へ都を遷すらしい。

⑦一世紀前半、王莽が漢朝を簒奪して「新」なる王朝を立てたが、二五年に光武帝が天下を覆して漢王朝を再興した。
この間に、鉄剣と銅鏡で日の神を称えて神国・米・鉄づくりを図る天之国女帝の天常立が、地の神を祀る豊葦原中つ国の国常立と連合して伊都国を古巣に押し戻し、天地からなる倭奴国王朝を旧都脇に樹立した。
 ついで国常立を婿養子にとって倭王や伊都国王に据え、自ら日天神に昇った。日高の高皇産霊も鉄剣十握剣を託され、王朝の守護に回っていた。
五七年、倭王の大夫が漢に参って金印「漢委奴国王」や数々の銅鏡を授かった。

⑧一五〇年代初め、天(厳)之尾羽張神が七代目女帝に立つと、弓矢で火神を祀って三嶋流神国づくりを唱える面足神(攝津三嶋の太氏鴨族)が伊都国と結託して政権を掠め取り、三嶋(茨木市辺り)に都を移した。

⑨一七○年頃、銅矛で日の神を祀る日隈(熊野家)の伊奘諾が黄帝流神国づくりに天竺風常世づくりを織り交ぜて吹聴し、尾羽張神の信頼を得たと見るや、面足を討った。結果、十握剣を授かり王朝守護を託された。
その後は王朝草創期に立ち戻り、天地四方からなる六合制を再現した。即ち筑紫島を筑紫国・豊国・肥(日、火)国・熊襲に四分した上で、紀伊・熊野の水穂国、淀川下流域に豊葦原瑞穂国、丹後・尾張に両海部家を策封したのだ。豊葦原中つ国も島根半島に杵築国・佐太国・闇見国(月読国、黄泉国)・美保国を東西に並べて見せた。大倭家は月の国として副都月の都(唐古)や東方に睨みを利かせていた。
それと同時に、伊奘諾は女帝の娘・向津姫を養女に押し付けられた。これには尾羽張神のたっての願い、つまり向津姫が伊奘諾の養子・豊受皇太神を婿にとり、次期天神に昇る国策が秘められていた。以後、皇太神は太子や副都の長を兼ねながら、常世づくりのために伊勢・志摩・熊野・出雲・丹後へ駆け巡った。向津姫と皇太神の間に生まれた児は、皆の期待に反して皇子だった。

閲覧数277 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 08:47
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