2014年08月03日(日) 
⑬二二〇年代初め、日神は天神を降りるとして亡き天鹿児山のみを火天神に定めると、天孫の天火明・火瓊瓊杵に天鹿児弓・羽羽矢を授けて、日子坐王(鹿児山の児)ともども天神の御子とした。次の倭王は天神の御子から選ぶと決めてのことだった。その後、三種神器・日矛も授かる火瓊瓊杵は薩摩吾田に降臨すると、女神大山祇神の娘・木花開耶姫の婿養子となって、笠沙宮で呉軍襲来に備えていた。
[後に西都市妻に退き、そこで火照(海幸彦、火明を襲名)、火闌降(吾田隼人の祖)、火折(のちに火火出見と交換)をこしらえた。この国は日前国、妻国、和国と称して呉に与した]
火瓊瓊杵の降臨直後に、天照大神は天火明や大己貴を連れて纒向に戻った。日神も素戔嗚らと一緒に夫追って邪馬台国に向かった。その道中で夫が急逝した。
纒向の上之宮に入った日神は天神を降りて天照大神の位と遺志を継ぎ、ついで女王ヒミコに立つと、軍を束ねる兵主に素戔嗚卿、天火明(二代垂仁)の補佐役に大夫大己貴、外交を司る役に天日槍を任じた。大事を決する際は鬼道を使い、夫の御霊が乗り移ってきた姿で詔を伝えた。ここに天之国を柱とする天(厳)之国王朝が誕生して畿内に鉄器が浸透し、出雲流の巨大古墳が造られる環境が整った。
一方、天火明は日子坐王が娘・狭穂姫に婿入りして誉津別(火火出見、のちに火瓊瓊杵末子の火折と交換)に恵まれたが、妃が謀反した兄の許に走った。[十年後に、天火明は日葉酢姫(日子坐王の姪)ら五姉妹を娶ることになる]
二四〇年前後、女王は呉軍襲来に備える一環として、天孫の団結を謳いながら両家に嫡子交換を命じた。先ず、天火明の嫡子・誉津別が火火出見(山幸彦)と称して日向に降ったが、太子の座を巡って火瓊瓊杵長男の火照(海幸彦)と争い出した。敗れた海幸彦は、「これから先は、夜も昼も火火出見の宮殿を守って仕えるから許してくれ」と言って、命乞いまでした。

⑭二三八年十二月、女王の大夫が洛陽に到って明帝に見え、金印「親魏倭王」・鉄剣・銅鏡等を授かった。
数年後、呉に与した火瓊瓊杵が北九州に攻め上ってきた。その最中に、天火明・日高見・尾張勢がヒミコを引きずり下ろしにかかった。笠縫邑に上之宮を遷した女王は魏の意向に沿って火瓊瓊杵と和睦し、謀反した一派を東国や常陸に追い払うや、日向から招いた海幸彦に火明や饒速日の家督を継がせて、火明饒速日と語らせた。

⑮二四〇年代後半、ヒミコは火明饒速日を次の倭王に、巫女で侍女の豊鍬入姫(トヨ、天火明の娘)を宗女(次の女王)に指名した後、倭姫らと伊勢五十鈴宮に遷って祝の宮を建て、夫がそこに降臨してくつろぐようにと祈っていた。翌年、ヒミコは齢八十余で逝くと、旧上之宮真南に築かれた円形壇(径百余歩)に葬られた。
大葬を終えた饒速日は天(厳)を日本の倭に組み込むと、纒向珠城宮に日本王朝を開いて倭王(三代垂仁)に立ち、天照御魂神(真経津鏡)複製鏡と十握剣を神璽として自ら王朝を守ってみせると豪語していた。素戔嗚がこれに猛反発したことで、千余人が殺害される抗争に発展した。この騒乱もトヨが二代目女王に立つ、南国勢との協調を図る、神国・常世づくりに励む、饒速日が天火明妃だった日葉酢姫ら五姉妹を娶る、天火明の児(五十瓊敷、大足彦)を太子に立てる、大己貴を卿に格上げして政を委ねることで漸く沈静化した。
この直後、円形壇は石垣を五段に積み重ねた円墳に様変わりして、水濠で囲われた。
同じ頃に火瓊瓊杵が逝った。跡継の火火出見は都城市都島に高千穂宮を開いた。そこで彼がもうけた児も、男子だった。ついで彼は、鹿児島湾奥の隼人町に高千穂宮を遷した。

閲覧数303 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 08:56
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