2014年08月03日(日) 

〈天孫降臨〉……彦火明の丹後・大倭遷座
⑧-2その直後、日神も素戔嗚と共に纏向に向かった。同じ頃、大己貴が彦火明(天火明)に随伴して丹後宮津から大倭に遷った。

猿田彦が高千穂宮に舞い戻ると、次に日神一行を邪馬台国に先導する役目が待ちうけていた。その警護役として、経津主と武甕槌が抜擢された。
二二〇年代前半、日神は天(水)一門・住吉族らと一緒に高千穂宮を出立した。一行は五ヶ瀬川沿いの険しい山道を西に向かって進み、熊本平野を見下ろす辺りから北上した。ついで筑後川に沿って博多湾に到ると、そこから船に乗って響灘に乗り出した。さらに日本海を巡る長い船旅を続けた後に、隠岐島を経由して出雲稲佐浜にたどり着いた。
☆待場神社(島根県隠岐郡西ノ島町浦郷三度)、神代の昔、天照大御神が天宇受売命を従えて降臨した折、出迎えた猿田彦命と三度目に出会えたことで、三度(みたべ)の地名になったという。猿田彦を祭る待場神社も、天照大御神を待ち続けた場所に由来する。

浜辺には、素戔嗚が八重事代主・味スキ高彦根・大山咋を従えながら、千余の兵と共に待機していた。日神はそこの岸辺に船を寄せると、猿田彦や素戔嗚に順次命じた。
「猿田彦は、丹後の宮津まで道案内に立て。宮津に着き次第、直ちに伊勢に降って私たち夫婦の天降り準備を進めておけ。素戔嗚は新都に移り、天下づくりの補佐役に就くように。葦原中つ国の統治は振り出しに戻して、猿田彦の児に継がせるから安堵するがよい」
続いて日神一行が津々浦々を経由して丹後宮津に到ると、大倭や播磨から駆けつけてきた高皇産霊・天火明・大己貴、それに出石の天日槍がそろって迎えに出てきた。
その後、日神は夫の勧めるままに丹後宮(籠神社の地)にしばし滞在していた。夫の方は、大己貴警護の下で大倭に引き返すや、天照大神の立場に戻った。猿田彦はその足で伊勢の二見へ旅立った。
以後、天照大神は味スキ高彦根・八重事代主に厳重警護される中、金剛山東麓に仮住まいしつつ、新都造営・大葬準備・日高見建国に向けて矢継ぎ早の指示を出していた。
「海部氏系図」、始祖彦火明 ─ ○ ─ ○ ─ 三世孫倭宿禰─武振熊
戦前には問題視されて門外不出とされた。だが戦後になると、その価値が見直されて、国宝に指定された。これには理由がある。この系図と『古事記』の系譜を重ねると、記紀系譜を根底から覆すものが浮かび上がってくるからだ。(→本書の王系譜と合致)
『日本書紀』、「大己貴命と、少彦名(彦火明)命と力をあわせ心を一にして天下を経営(つく)る」
『古語拾遺』、「大己貴神〔一の名は大物主神。一の名は大国主神。大和国城上郡大三輪神是なり〕」
「出雲国造神賀詞」、「大穴持の申し給わく、『皇御孫尊の静まり坐さむ大倭国』と申して、己の和魂を八咫の鏡に取りつけ、倭の大物主、櫛甕玉尊と称えて大御和の神奈備(大神神社)に坐せ、」
「大神神社の祭神」、大物主大神(三輪大物主、倭大物主、大神大物主、日本大物主大神)、大穴持・大己貴、少彦名を祀る。本書では、倭大物主は天照大神、日本大物主大神は火明饒速日、大神大物主は大己貴、少彦名は天火明と見た。

『古語拾遺』、「猨田彦神が天鈿女命に、『(天孫を薩摩にお送りした後は)、伊勢の五十鈴川上に参ります』と秘密をもらした」、
「天照大神が伊勢で祭祀されたには、深いわけがある。それは、天照大(御)神が高千穂にいる時に前もって密約していたことだ。それで先ず猨田彦神が伊勢に降った」
『古事記』、「猿田彦は、(二見ケ浦の)アザカで漁をしている時、貝に手をはさまれて溺れ死んだ」
※要するに、高千穂宮で日神を奉った高天、即ち倭の主勢力は大倭に移ったわけだ。

閲覧数354 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 10:15
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