2014年08月03日(日) 

〈天神の御子の降臨〉(最終編)……火照(海幸彦、火明、火明饒速日)の降臨1/3
⑨この三十年足らず後の二四○年代後半、つまりヒミコが逝く一年足らず前に、火瓊瓊杵の児・火照(海幸彦)が火明と饒速日を襲名して大倭に降臨し、日本朝を開いた。彼は饒速日と称して、天孫饒速日のごとく振舞っていた。

 ●内部抗争
二四○年代中頃、呉と好を通じた火瓊瓊杵は川内城(川内市)に立てこもり、選りすぐった遊撃隊を次々と北進させた。本軍も菊池平野の敵を蹴散らしながら、怒涛の勢いで筑紫平野へなだれ込んで行った。
その最中に、天火明と日高見勢がヒミコを引き摺り下ろしにかかった。ヒミコが素戔嗚・大己貴・大神氏・磯部氏らを結集して天火明勢や尾張勢に立ち向かうと、都中がたちまち戦場と化し、宮殿からも火の手が舞い上がった。戦火は瞬く間に周辺国へと飛び火した。すると、天火明配下の尾張勢は都に大軍を送り込んできた。
ヒミコは宮殿を焼かれた上に身の危険まで感じたことで、三輪山麓の笠縫邑に上之宮を移した。

二四七年、魏は帯方郡に新しい太守を送って韓人の乱を鎮めると、帯方郡吏張政らを大倭に派遣して先の詔書と黄幢を届けさせた。と同時に、檄文を付して和睦するよう告喩してきた。
結果から見ると、火瓊瓊杵はこの告喩を受け入れる他になかったらしい。
ヒミコも天火明憎しでこり固まっていたから、火瓊瓊杵と和睦して西海部隊をこぞって呼び戻し、その矛先を天火明勢・尾張勢に向けたいと念じていた。以後、双方の利害が一致することで、ヒミコは火瓊瓊杵と手に手を取って、新しい天下づくりに邁進することになる。
「倭人伝」、「(二四七年)、倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ヒミココ、天孫)と素より和せず。倭の載斯・烏越などを遣わして郡に詣らしめ、相攻撃するの状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、よって詔書・黄幢を難升米に拝受せしめ、檄をつくりてこれを告喩す」

晴れて権力を奪還できたヒミコは、天火明と天香山の親子、それに日高見・大倭厳・尾張海部家の首謀者らをことごとく東国へ追い払う一方、大倭国に対して服従を誓わせるだけに止め置いた。こうした経緯から、ヒミコは火瓊瓊杵長子の火照(海幸彦)に以下の詔を降すことになった。
一、日の神と火神の双方を兼ね、天火明の家督・天璽(天鹿児弓と羽羽矢、瑞宝十種)を引き継げ。
一、日向の天(日)勢を率いて上洛し、大倭に日本家を興せ。同時に、日本家・大神家双方の家長を兼ねる日本(やまと)大物主大神に就任し、大神家ともども日本王朝を興せ。
一、祭場での日本の座は、日の祭壇を奥にずらして空いた所とせよ。

この直後、ヒミコの特使が天璽の天鹿児弓・天羽羽矢、それに瀛つ鏡・辺つ鏡など瑞宝十種を奉じて薩摩に急行し、海幸彦に以下の詔を伝えた。
一、火明を襲名せよ。
一、天(日)勢を率いて出雲に立ち寄り、大己貴を連れて参れ。
一、火スセリは、海幸彦の名と家督を継げ。「夜も昼も火火出見の宮殿を守って仕えるから・・」との誓約も、海幸彦となる火闌降が守り通せ。
『古事記』  火照(海幸彦、隼人阿多君祖)  火スセリ 火遠(穂穂手見)
『日本書紀』 火スセリ(海幸彦、隼人等の祖) 火火出見 火明(尾張連等の祖)

一方、造反組の尾張勢は、東国に散らばって生き抜くことを強いられた。その結果、関東のあちこちで尾張色の濃い文化や土器が根づくことになる。
『日本書紀』、「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷にいでましぬ」
『常陸国風土記』、「古えの人が常世の国と呼んだ神仙郷は、この地(信太)ではないか」
『常陸国風土記』逸文、「この地(信太)は、もと日高見・・」

閲覧数359 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 10:16
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