2014年08月03日(日) 

〈天神の御子の降臨〉(最終編)……火照(海幸彦、火明、火明饒速日)の降臨3

後に、火明(火照)は大己貴を連れて丹後宮津に到ると、豊受姫や日子坐王親子の家を訪ね歩いた。彼がそこに逗留している間、豊受姫は夫の天鹿児山や長子・饒速日に先立たれた不幸を長々と嘆いて聞かせたり、日子坐王も孫娘四人が天火明(二代垂仁)と離縁して実家に戻ってきた不運を愚痴ったりした後に、二人揃ってこう頼み入れてきた。
「豊葦原瑞穂国に天降った我が児・饒速日を襲名して下され。そなたの児も天鹿児山(饒速日の父親)や天叢雲(同じく祖父)を襲名されるが良かろう。これを縁に、義弟となる日子坐王(饒速日の弟)一門を良しなに。さすれば、当家はどこまでも饒速日について行く」
そこで、火明は火明饒速日(以後、饒速日とも呼ぶ)と名を改めた後に、宮津を発って河内東部の草香邑に天降り、その地の葦原中つ国一門を日下(ひのもと)家と改名して抱え込んだ。
『但馬故事記』、「饒速日は勅と十種の神宝を奉じて妃の天道姫・数多の随身を率い、丹波の真名井原に天降った。そこで豊受姫からもらった五穀や桑の種を植えつけたり、井戸を掘ったり、田畑を開いて蚕を育てたりした。豊受姫はこれを見て大いに喜び、田つくりの手伝いにと天熊人を遣わした。後に、饒速日はそこから河内生駒に天降った。天道姫が丹波で産んだ児を天香語山、そのまた児を天村雲という」

その後、大和川をさかのぼって纏向入りした彼は、宮殿に参内してヒミコとの接見を済ませると、鳥見に移って日本家を興した。と同時に、五十狭茅を襲名して活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)と語るや、饒速日や天火明の家督・祭器の一切合切を手にした。これで、日本と日前は互いの嫡子を取り替えたことになる。それは、二四七、八年のことだ。
暫くすると、彼は葦原中つ国系の鳥見屋姫(三炊屋姫、みかしやひめ、御炊屋姫襲名)とも婚約を交わした。この縁組によって、兄の鳥見長スネ彦(長スネ彦襲名 )は大抜擢されて日本将軍に駆け昇った。落ち目にあった大倭家は新王朝に服従を誓うとともに、大日本家と改名した。
その後の饒速日は、日本家・大神(おおみわ)家の家長を兼ねて日本大物主大神と語り、権力を欲しいままにした。大己貴も大神大物主となって政の采配を振るった。ここに、天地に似る王朝が成った。
「神武紀」、「饒速日命、天磐船に乗って大空を巡り行きこの郷(くに)に天降った。よって、『空見(そらみ)つ日本の国』という」
『先代旧事本紀』、「天神の御祖(みおや)、詔して、天璽の瑞宝(みづたから)十種を授く。・・
饒速日尊、天神の御祖の詔をうけて、天の磐船に乗りて、河内国河上哮(いかるが)峰に天降り坐し、則ち大倭国鳥見の白庭山に遷り坐す。いわゆる天の磐船に乗りて大虚空(そら)を翔(かけ)り行きてこの郷(くに)を巡りに睨(おせ)りて天降り坐す。饒速日尊、便ち長スネ彦の妹御炊屋姫命を娶りて妃と為し、妊胎(はらま)したまふ」
『旧唐書』「倭国日本伝」、「倭国は古の倭奴国なり」、「その王、姓は阿毎(あめ)氏なり」、「日本国は倭国の別種なり」、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」
※『先代旧事本紀』のこの記事は、饒速日の降臨と火明饒速日のそれを重ねたもの。
※26~27の記事にあるごとく、火明饒速日は火明や饒速日のしぐさを演じつつ、日向から大倭に天降ったのである。
※ヒミコが火照を大倭に呼びつけた目的は、道半ばの倭奴国王朝再現を満願成就させることにあった。

閲覧数319 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/08/03 10:18
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
takataysさん
[一言]
古代史研究家
■この日はどんな日
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み