2015年01月13日(火) 
‥‥八幡(応神)→宇美ではなく、石体宮で誕生(実の父は仲哀でなく、磐余彦) 
①その後、神功は一足先に凱旋して、博多の那津(博多)に上陸した。そこから宇美(福岡県宇美町)に移って皇子を出産した。この皇子について、日本書紀は、
「神託を受けて宇美で誕生した神功皇子は、敦賀の気比大神と名を交換して応神に立った」とする。
だが、この記述は疑わしい。これと応神に関する伝承を照合すると、話がかみ合わないのだ。
『水鏡』は「応神は鹿児島神宮の石体宮で生まれた」と伝え、鹿児島神宮も古くから「応神は当地で生まれた。当社こそ、八幡信仰の発祥地だ」と主張するからだ。
この件については、考えるほどに疑問が湧いて出る。
一、仲哀が新羅の国さえ知らないのに、なぜ神功の孕んだ皇子が新羅統治の神託を受けたのか。
一、なぜ、この皇子が気比大神と名を取り替える必要があるのか。
一、なぜ新羅統治の神託が実行されないままに、この皇子が応神天皇として立てるのか。
では、全体がどのような形であるなら、万事つじつまが合い、しかも三つの疑問も揃って解消するのか。ここでは、結論だけを伝えておこう。
「神功は、三皇子をもうけた。即ち、長男として生まれて気比で育つ皇子、神託を受けて宇美で誕生する皇子(神功紀では、初めて孕む子)、ついで石体宮で誕生する皇子だ。
その中で応神天皇として立つのは、宇美で生まれる皇子ではなく、水鏡や鹿児島神宮の伝える石体宮で誕生した皇子なのだ。そもそも神功が神託の中で「新羅はお腹の児が治めるところの国だ」と巫女の口から語らせたのも、仲哀の児が天皇に立てる道理がないと踏んだからだ」
筆者は海部氏系図を参考にして、この物語を組み立てたわけではない。にもかかわらず、本書の系譜と海部氏系図とはぴたりと一致した。これと同じ結論に至る伝承は、やたらとある。これを追うことによって、「応神の実の父は、誰か」という謎にも迫ってみたい。
☆一般的には、八幡信仰は宇佐神宮が最古とされるが、磐余彦が祖父の火火出見を祀り始めたという鹿児島神宮も、「当宮の石体宮こそ、八幡信仰の発祥地だ」と主張して一歩も譲らない。その石体宮は、磐余彦が東征計画を練った所とされ、彼にちなむ巨石を御神体として祀る。一方、石体宮はお産の神様としても有名だ。それは、神功が石体宮で応神を産んだからとされる。
☆水鏡も今昔物語集も、一一三二年の大宰府文書も、神功がここで八幡を産むことや、石体宮の巨石に八幡の文字が刻まれていた由を伝える。
☆阿蘇神宮の縁起も、こう伝える。
「神武天皇の長男は、阿蘇草部の娘と結婚して阿蘇権現となるが、三男の方は兄の勧めで都に出て神功に宿り、八幡としてこの世に生まれた」
「応神紀」、「天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みたてまつりたまう。時に大神と太子と、名を相易(か)えたまう。故、大神を号けて、去来紗別神と曰す。太子をば誉田別尊と名づくという。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂すべし」
☆磐余彦は太子と決した日本武が死去した故、五皇子の名を交換させて太子と次の太子を指名。後述します。
③筆者はこれが真実を伝えるものと見て、以下の筋書きを組み立てた。
一、神功は熊襲征伐の勅命が降ったことで、敦賀の気比に長男を残したままで筑紫島に赴いた。
二、次の児を宿していた神功は、「新羅は、皇后の孕める児が治める国だ」との神託を橿日宮で受けた後、新羅の遠征に向かった。
三、凱旋した神功は筑紫の宇美に移り、そこで次男御間城入彦(仲哀の児)を産んだ。
四、その後、磐余彦の妃に転じた神功は、三男八幡を石体宮で出産した。

閲覧数268 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/01/13 06:44
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